鳥居 秀行

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鳥居 秀行

鳥居 秀行

代表取締役社長
1962年11月-67年

愛知県豊川市に生まれる。平野さんと同じ年。geekな人生を開始する。ただし場所が悪かった。町(というか村)の半分は農業で生家も養鶏業。両親もDIYな人たちだが大学教養には無縁でgeekの環境としては理想からほど遠い。ただし以後17才まで成長期を迎えずチビで過ごしたのはgeek向きであった。周囲にガラクタ建築・電設資材(ゴミとも言う)と旧字体(右から書いてたりカタカナだったり)の書物が大量にあったのもgeekとしては嬉しかった。

1968年

この頃通った保育園で「サイボーグ009」ごっこをして遊ぶ時、いつも001役をさせられて先生の机の下に押し込まれる。それが未来の運命であったとは。

1969年

400年以上続く旧家に生まれたおかげで早くから漢字が読めた。小学1年で子供用百科事典全10巻を読破。以後3年間で大人用百科事典も読破。大人の知識を手に入れる。7月20日のアポロ11号着陸では月着陸船からなかなか出てこないアームストロングとオルドリンにいらつく(朝になっても出てこないぞ!)。イーグルとコロンビアのプラモデル模型を組み立てる。

1970年

大阪万博で月の石を見る。オーストラリア館の壁がマジックミラーになっていて迷子になりかける。

1971年

私の人生にとっての1905年=奇跡の年(miracle year)だった小学3年。望遠鏡自作を試みるが失敗。数学的知識の乏しさに気づく。代わりにお年玉で屈折式を購入しガリレオ衛星ほか一通り観測する。この頃は皆既月食が多くて父親のペンタックスSPと暗室を借り天体写真にもチャレンジする。電子回路を自作するが低周波回路止まり。ここで三角関数の必要性に気づく。

1972年

水素の発生実験で失敗し友達に怪我をさせる。実験的知識の乏しさに気づく。実家が自営業で倉庫(もともとは蚕屋)や工作室があった。それををいいことに様々なことに手を出す。電気分解にはまり自宅で塩素ガスを発生させたりする。倉庫の中で第二次世界大戦前後の教科書を発見。中学生程度に高度な数学教育を施していた事実に驚愕する。父親を説得して塩化第二鉄やらバットやら怪しげな物品を揃える。

1973年

後に大学に行ってから知るのだが水素発生と火薬合成の失敗はgeekの通過儀礼らしい。お年玉プラス親の援助でTI電卓を購入し初めてプログラミングをする。HP社と比較するうち逆ポーランド方式とスタック概念に感動する。

1974年

数学を頑張ったおかげで電話級アマチュア無線技士に合格。sin, cos, tanまでは大丈夫なんだけど微積分学が今ひとつの小学6年生。電波を出せる身分になった代わりにガリ勉と間違えられてgeekはもてないことにようやく気づく。代償行為として学校の図書委員をこの年まで3年連続で務める。おかげで一通りの古典を読破。以後は祖父と母のおかげで元から得意な漢文と古文に加えて国語(現代国語)も無敵になる。雨月物語・春雨物語・小泉八雲・ポーにはまる。

1975-7年

geekな中学生に育ったことを最も後悔した時期。地方の公立中学では特殊な趣味の話し相手がいない。クラスメイトは「宇宙戦艦ヤマト」を喜んで見るのになぜ「2001年宇宙の旅」を名画だと思わないのか理解が出来ない。サッカー部に入部してノーマルな男の子になろうと頑張る。ストレス発散のため相変わらず読書に凝っていたところ学校の図書室の本を辞典以外読み尽くしてしまい市の図書館に通う。「ローソクの科学」「化学のドレミファ」「赤毛のアン」にはまる。旋盤やボール盤に習熟する。geekとして一番不幸だった頃。

1978-80年

ぬるい田舎を出てより競争的な都会に行かなければgeekは生きられないことを悟った時期。地方の名門ということになっている公立高校に通う。中学校とは違って「成績の良い子」だけが通う学校だったから、中学校時代までのように「何でそんなことになるんだ!」的不条理に悩まなくなる。これぞ私の人生にとっての「コペルニクス的転回」という奴で、1)いくら話しても価値観を共有できない人たちの集団にいても損、2)そんなところで我慢せず抜け出してチャンスの多そうな所を目指せばよい、3)最初はダメでもチャレンジを繰り返せばついには成功にたどり着けるんじゃない?、との三段論法につながる。わかりやすく言えば郷里を出る決意を勝手に固める(私の両親とすれば私は長男だったから当時の感情としては残って欲しかったと思う)。授業とは別に先生と親しくなって化学準備室、後には物理と数学の教室にも入り浸る。放課後の秘密実験のおかげで化学系の実技が得意になり近くの川のCOD/BODを測定したりする。Z80マシン語を16進で読めるようになる。ハイゼンベルグと中島敦にはまる。当然みすず書房の本が本棚に増える。「スター・ウォーズ」を見る。地元は名古屋テレビの放送地域だから初回放映の「機動戦士ガンダム」を見る。17才で突然20cm身長が伸びてびっくりする。

1981年

形而上の世界から出て現実に目覚めた時期。京都大学理学部物理学科の受験に失敗する。この一校しか受験しなかったため浪人確定。いわゆるどの科目でも満点近くとるタイプの学生だった。当時の共通一次試験でも900点以上(1000点満点)。慢心して二次試験に臨んだのが敗因。吉田神社前で京都には運がないとあきらめて東京を目指す。丸の内線本郷三丁目駅近くのアパート「邑楽館」で浪人生活を送り駿台予備学校に通う。はじめて一人暮らし。持ち前の性格で今度は漫画に乗り出し、少女漫画を含めて一通り読み尽くす。記憶に残っているのは神保町交差点と文京区真砂図書館、白山通りの吉野家。人生でこの年だけタバコを吸う。パチンコをやる。この時に実はアルコールも飲めると知る。テクノ系なのに改めてYesを聴く。それで文学傾向は柴田翔だったりする。村上春樹にはなれない。要するにそんな心境だった。

1982-86年

天才的な仲間と一緒に大学教授の道を目指すのは不利と逃げた時期。東京大学理科I類に合格。TSG。大学2年からVAX-11/780を持ってた情報科学科の研究室に入り浸る。なんだかんだでroot権限まで預かる(メンテナとして働かされていたとも言う)。4.1 BSD UNIXのソースコードを読んだり、PC-8801とPC-9801をディスアセンブルしてテクニックを磨く。FDCとしてZ80が搭載されているのに気づき、PC本体のCPU負荷をまったくかけずOSからも悟られずにプログラムを走らせる気味の悪いコードを書く。PC-8201を持ち歩きシリアルポートを見つけたらIBMだろうがDECだろうが構わず接続、その場でプロトコル解析してシステムに侵入したりする。つまり今で言うところのハッカー(クラッカーではない!)でもあった。2年生の時、趣味でとった生化学系の授業で教授のためにX線結晶構造解析データを元にタンパク質構造を3次元表示する簡単なアプリケーションを書いたところ、優をくれた上に謝礼までもらう。こんな学生だったから3年次には自然に理学部情報科学科に進む。授業には最小限度しか出席せずコンピュータ関連の仕事にいそしむ。自分の確定申告を心配する学生生活。板倉雄一郎とゲーム「ハイウェイスター」を作る。「素晴らしいマイコンの世界」の本人とは研究室で一緒。ハイトリオ南青山時代のアスキーと「Yoのけそうぶみ」の本人を知っている。日吉にあったパソコンカフェ時代のSQUARE(現スクウェアエニックス)に出入りした。神田駿河台のマンションにあったこちらもスタートアップ直後のACCESSで働いたことがある。荒川亨さん亡くなられたのですね。当時からの大企業ではリクルート(一緒にバンザイした)と明治生命システム部(当時も暗い雰囲気)が思い出に残っている。最後まで大学院進学と迷ったが、メーカー就職した先輩方がいかにも先行き暗そうだったのと、「今なら未経験の世界に飛び込めば後々役立つだろう」なんて甘い考えだったので、結局銀行への就職を決める(決めた自分もびっくり)。おかげで私が大学院に当然進学してくると考えていた先生(例のVAX-11/780の研究室)から「こんなに面倒見たのに君は…」と思いっ切り嫌われる。今でも申し訳なく思っている。

1986-98年

suitsの皮を被ったgeekに変身した時期。株式会社住友銀行(現三井住友銀行)入行。筒井さんと同期。なんとこの時代、銀行に入れば独身寮しかも相部屋に入らねばならない。泣く泣く本棚3本分の書籍を廃棄し次の3本は理学部1号館の学生控え室に寄付し残りは実家に送る(「就職が決まって髪を切ってきたとき…」の心境)。内定をもらった後のシステム部長(当時)の面接で銀行システム部トップというものを知ってしまう。「まずい!このままシステム部行かされたら人生おしまいだ」と衝撃を受けて表向きgeekな能力を封印。「パソコンは苦手なふり」をして帰宅後にコンパイラを走らせる。惨めな日々。こんな事情を隠して営業店配属を希望したら人事部に変人扱いされる。そんなわけで就職直後は社会的知識を身につけたらすぐに辞めて起業するつもりだった。ところが「高等」数学が得意とか勘違いされて(「何それ?」と思うかもしれないが当時の銀行ってばそんなところ)営業店から証券部門に異動される。人事部に歯向かったので留学組からは外された。でも当時は数少ない数学わかる奴だからという理由で代わりに米ゴールドマンサックス社に出向、NY本社26-27Fで過ごす。コーザインがFIDのヘッドでフィッシャー・ブラックが存命だった。ピザをおごってもらったりする。FIDで「金融工学」なるものの現実を知る。つまり数学的才能としては私のようなレベルでまったく十分、というかマーケットではむしろオーバースペックであって、逆に思いっきり不足しているのはアニマルスピリットだということ。それを帰国後に銀行で上司を説得したがついにわかってもらえなかった。J.Aronの連中とストリップバーに行く。スキューバダイビングのライセンスをとる。楽しかった。銀行に忠誠を誓う気になる。帰国後に債券ディーラーを務めアービトラージ取引で往復1000億円超のポジションを複数仕組んで大暴れする。気分はゴードン・ゲッコー。しかし銀行の証券部門はゴールドマンの真逆で資金為替部門の格下(おい何だよそれ!)。辛酸をなめる。銀行への忠義が揺らぐ。落ち込んでいる最中に結婚する。退職後の将来を真面目に考えねばと昼休み人目を盗んで国会図書館に通い起業の準備をする。しかしスタンバイできたのに義理堅い性格が災いして恩義ある上司のおかげで辞められない。その上司のおかげで左遷(?)先からなんと資金為替部門に移される。観念して再び銀行員人生に戻る。ALMおよびリスクマネジメントに携わり銀行内の業務企画と規制対応システムの設計に関与する。NYでゴールドマンに立ち寄ったらロバート・リターマンがまだリスク管理のヘッドをしてて最新鋭のシステムを自慢げに見せてくれる。仕事絡みで当時はまだバブル前のシリコンバレーで某ソフトウェア会社に滞在する機会がある。それが私の人生にとっては「ダマスカスへの道」だった。ついにgeekな血が覚醒。再起動。”conversion” した私は自称「3年計画」を開始する。そして3年後本当に独立する。

1998年7月-2009年

ニューメリカルテクノロジーズ社を設立。当社の業務は大学出たてのgeekだったらどんなに才能があろうが出来ない仕事。理由は簡単。秘密が多いから(本ないし私も書かないし)。しかも日本だろうが世界だろうがライバル会社のgeek能力は著しく低い。理由は簡単。出来る奴ほどシリコンバレーで会社作ったりヘッジファンドやったりしてスローなリスク管理ビジネスをやめちゃうから。今やよく知られているように日本国内のシステムベンダーに至っては当時も今も文字通りガラパゴス状態。ぜんぜん問題にならない。ニッチ。技術的優位に立つのは容易だったと言える。そこで最大の問題は取引先開拓だった。suitsになって築いた信用がここで活きた。と言えればカッコいいがよくぞ信用してもらえたものだと思う。だから「お客様」には頭が上がらない。銀行員時代に内実を知ってしまったので面倒な上場会社や中途半端に大きい会社にはしたくなかった。頭がカラッポなくせに金だけ出すという日本のベンチャーキャピタルが大嫌い。事情をよく知ってるから銀行取引も大嫌い。「銀行取引約定書」になど絶対にハンコを押さない主義(それするくらいなら会社を清算する勢い)。だから自然に無借金経営となって創業期には苦労する。でも自分の父親や平野さんの親戚の不動産屋さんの男気ある経営スタイルを見て頑張ってみる。当社は固定費が低い上に苦しくなれば固定費を「調整」出来てしまう。理由は簡単。株主=役員=主力エンジニアで外注費がないから。銀行員時代の同僚や先輩から「すぐ潰れるんじゃない?」みたいに言われたくないので極端に安全志向の経営をする。つまり確信犯でGoogleの逆をやった。当たり前だがシリコンバレーなアントレプレナーとはまったく話が噛み合わない。その起業から12年を経て今やエンジェル投資家を名乗れるくらいにキャッシュ(内部留保)を溜めた。確かに日本国が潰れても生き残りそうなくらいに会社も安定した。でも成長しない会社になった。これで本当に良かったのか時々自問する。技術面ではアンディ・ベクトルシャイムとか実際に会って素直にすごいと思う。ここでソーシャルネットワークとかに目が行かないところが自分はローテクだと思う。それでも20-30年先の自分はそうありたい。「エヴァンゲリオン」は2000年問題に備えるべく会社に泊まった大晦日にTV編をまとめて見た。もともとジグソーパズルが好きだったりのストイック趣味つながりで2003年のホノルルマラソンに出場。それから陸上に嵌る。ツボに嵌ったらしくホノルル6回出場をはじめいろいろ参加。wanderungは思索の時間。フル以前にトレイルランナー。カッコつけて言えばハイゼンベルグと同じ。自己ベストはフルマラソン3時間6分27秒(2008年:第2回東京マラソン)、100kmウルトラマラソン9時間56分22秒(2008年:第23回サロマ湖)。亀岡ランナーズの「かとちゃん」さん、くじける私を叱咤激励していただきありがとうございました。おかげでサブ10達成です。関東からサロマンブルー達成をお祈り申し上げております。

2010-11年

高校時代見出した三段論法を再び思い出した。ぬるい日本を出てより競争的な海外に行かなければgeekは生きられない。シンガポールに法人を設立。同時に移住。我々の分野では日本語化されたソフトウェアツールによる開発など想像もできない。文献もほぼ100%英語。東京からソフトウェア開発を移管し日本に輸出する体制に変更。東京オフィスは営業とサポートの拠点にしていくことに。月2回は日本や周辺各国との間を往復する日々。あっという間に航空会社のマイレージカードもダイヤモンドクラスになる。標高差3,000m、気温差21度、完走率50%、日本一の山岳レース(ということになっている)富士登山競走を完走(2010年:第63回富士登山競走、記録4時間21分50秒)。2011年3月の福島第一原発事故が起こる。これを契機にリスク管理を生業とする者として、世間にはびこる情報非対称と戦い、情報格差に安住して被害を拡大するモラル無き専門家たちへの対抗を誓う。

2012-15年

シンガポール法人が順調に育ち、東京オフィスより大きくなる。シンガポールは中国系、マレー系が多数派。日常会話は英語。中国語ができればなお良い国。欧米の多民族国家と比較するとお互い固有の文化を尊重するカルチャーであり、自分の考えを押しつけてくる迷惑な人がいない。おかげでマイノリティ特有のストレスが小さい。周辺のアジア各国によく出張するようになる。博士号新卒採用も始めてみる。我流を押しつけていろいろ失敗もしたが、逆に自分も変わっていく。今や日本に住むのもシンガポールに住むのも感覚に変わりがない。家族もシンガポールに引っ越し。お父さんとしては単身赴任でなくなってとても嬉しい。子供達があっという間に自分より言葉が上達して驚愕する。一方、日本人として自分のアイデンティティに改めて気づかされる。故郷の愛知県豊川市にもたびたび訪れている。2014年、真夜中の山中を駆け抜ける71.5km、日本山岳耐久レース長谷川恒男CUPで4年ぶりに自己ベスト更新。記録は12時間1分58秒。課題は多いが故障の少ないスタミナ系ランナーなのだ。GoProは歴代全製品を持っている。C++ハッカー属性がなければプロでないと思う。でも自分はライトウェイト言語で楽してやると思ってる。APLをリフレッシュして現代に復活させる野望がある。1992年1月12日には間に合わなかったが、21世紀前半にチューリングテストをパスさせたいと思っている。よく使うのは15″ MacBook Pro。vi/vim派。termcapを書く喜びがインプリントされてるからだ。

そしてこの年の終わりに衝撃的な事件が起きる。AlphaGoが碁の世界チャンピオンを負かした。第三次AIブームの始まりである。

2016年

前年の終わりに革命が起きる。コンピュータサイエンスに明るいと未来が読める。水晶玉を持ってるようなもの。今回もそれが起きてエキスパートの間では共通認識になる。

人工知能(AI)の突破口とは結局のところ、単純なニューラルネットワークの発展形だったのだ。つまり先立つ30年前に起きた第二次AIブームは、(その一部にしても)答えに非常に近いところにいた。当時のコンピュータのパワーこそ圧倒的に足りなかったが。AIの近未来も明らか。R・ダニールやHAL 9000の実現は遠い。しかしスカイネットは実現する。。。

当面必要なものは物理的な計算能力と投資資金。ゴールドラッシュだ。それもゴールドで儲けるのではなく、ゴールドを掘りに向かう連中にスコップを売って稼げ! それがゴールドラッシュの教訓。スコップとはまずGPUとC++。それがPythonの連中に渡る。ウェブサービスやモバイルデバイスや組み込みチップになる。そして数多のビジネスモデルを売る。シンギュラリティを煽るコンサルタントまで儲けが回る。これは単純な生態系だ。

かくして金融工学がITテクノロジーをリードする時代は終わってしまった。この年にブロックチェーンも注目されたが、そちらは分散データベースの一形態が本質であり、既存のデータベース技術より優れたコスト、システムの信頼性、そして規制緩和が先行きを決める話なのだ。儲かるかもしれないがセクシーではない。

2017年

IT分野の活況は続く。レガシーと新技術の世代交代が進行中。そんな中で私の役割はどこに? ますますマネジメントの仕事を求められる中で、今後もエンジニアであり続けたいと願う。