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会社概要
弊社は金融リスク管理に取り組むシステム開発会社です。少数精鋭、高い生産性、金融業と数値シミュレーション分野の専門能力が特徴です。大学の計算機科学系研究室と金融機関の金融商品開発部を併せたような社風を有しております。
社名
ニューメリカルテクノロジーズ株式会社
本社
| 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-11-6 表参道千代田ビル6F | |
| E-Mail: | ![]() |
| Phone: | 03-5770-3711 |
| Fax: | 03-5770-3712 |
| Map: | |
資本金
50,000,000円
売上高
797,725,500円 (2009年3月期)
株主構成
弊社の取締役3名が全株式を保有。外部との資本関係はございません。
役員構成
代表取締役社長 鳥居秀行
| 1962年11月-67年 | 愛知県に生まれる。平野さんと同じ年。geekな人生を開始する。ただし場所が悪かった。町(というか村)の半分は農業で生家も養鶏業。両親もDIYな人たちだが大学教養には無縁でgeekの環境としては理想からほど遠い。ただし以後17才まで成長期を迎えずチビで過ごしたのはgeek向きであった。周囲にガラクタ建築・電設資材(ゴミとも言う)と旧字体(右から書いてたりカタカナだったり)の書物が大量にあったのもgeekとしては嬉しかった。 |
| 1968年 | この頃通った保育園で「サイボーグ009」ごっこをして遊ぶ時、いつも001役をさせられて先生の机の下に押し込まれる。それが未来の運命であったとは。 |
| 1969年 | 400年以上続く旧家に生まれたおかげで早くから漢字が読めた。小学1年で子供用百科事典全10巻を読破。以後3年間で大人用百科事典も読破。大人の知識を手に入れる。7月20日のアポロ11号着陸では月着陸船からなかなか出てこないアームストロングとオルドリンにいらつく(朝になっても出てこないぞ!)。イーグルとコロンビアのプラモデル模型を組み立てる。 |
| 1970年 | 大阪万博で月の石を見る。オーストラリア館の壁がマジックミラーになっていて迷子になりかける。 |
| 1971年 | 私の人生にとっての1905年=奇跡の年(miracle year)だった小学3年。望遠鏡自作を試みるが失敗。数学的知識の乏しさに気づく。代わりにお年玉で屈折式を購入しガリレオ衛星ほか一通り観測する。この頃は皆既月食が多くて父親のペンタックスSPと暗室を借り天体写真にもチャレンジする。電子回路を自作するが低周波回路止まり。ここで三角関数の必要性に気づく。 |
| 1972年 | 水素の発生実験で失敗し友達に怪我をさせる。実験的知識の乏しさに気づく。実家が自営業で倉庫(もともとは蚕屋)や工作室があった。それををいいことに様々なことに手を出す。電気分解にはまり自宅で塩素ガスを発生させたりする。倉庫の中で第二次世界大戦前後の教科書を発見。中学生程度に高度な数学教育を施していた事実に驚愕する。父親を説得して塩化第二鉄やらバットやら怪しげな物品を揃える。 |
| 1973年 | 後に大学に行ってから知るのだが水素発生と火薬合成の失敗はgeekの通過儀礼らしい。お年玉プラス親の援助でTI電卓を購入し初めてプログラミングをする。HP社と比較するうち逆ポーランド方式とスタック概念に感動する。 |
| 1974年 | 数学を頑張ったおかげで電話級アマチュア無線技士に合格。sin, cos, tanまでは大丈夫なんだけど微積分学が今ひとつの小学6年生。電波を出せる身分になった代わりにガリ勉と間違えられてgeekはもてないことにようやく気づく。代償行為として学校の図書委員をこの年まで3年連続で務める。おかげで一通りの古典を読破。以後は祖父と母のおかげで元から得意な漢文と古文に加えて国語(現代国語)も無敵になる。雨月物語・春雨物語・小泉八雲・ポーにはまる。 |
| 1975-7年 | geekな中学生に育ったことを最も後悔した時期。地方の公立中学では特殊な趣味の話し相手がいない。クラスメイトは「宇宙戦艦ヤマト」を喜んで見るのになぜ「2001年宇宙の旅」を名画だと思わないのか理解が出来ない。サッカー部に入部してノーマルな男の子になろうと頑張る。ストレス発散のため相変わらず読書に凝っていたところ学校の図書室の本を辞典以外読み尽くしてしまい市の図書館に通う。「ローソクの科学」「化学のドレミファ」「赤毛のアン」にはまる。旋盤やボール盤に習熟する。geekとして一番不幸だった頃。 |
| 1978-80年 | ぬるい田舎を出てより競争的な都会に行かなければgeekは生きられないことを悟った時期。地方の名門ということになっている公立高校に通う。中学校とは違って「成績の良い子」だけが通う学校だったから、中学校時代までのように「何でそんなことになるんだ!」的不条理に悩まなくなる。これぞ私の人生にとっての「コペルニクス的転回」という奴で、1)話してわからない人の集団にいても損、2)そんなところから出てチャンスの多そうな所を目指せばよい、3)チャレンジを繰り返せばついには成功にたどり着けるんじゃない?、との三段論法につながる。わかりやすく言えば郷里を出る決意を勝手に固める(私の両親とすれば私は長男だったから当時の感情としては残って欲しかったと思う)。授業とは別に先生と親しくなって化学準備室、後には物理と数学の教室にも入り浸る。放課後の秘密実験のおかげで化学系の実技が得意になり近くの川のCOD/BODを測定したりする。Z80マシン語を16進で読めるようになる。ハイゼンベルグと中島敦にはまる。当然みすず書房の本が本棚に増える。「スター・ウォーズ」を見る。地元は名古屋テレビの放送地域だから初回放映の「機動戦士ガンダム」を見る。17才で突然20cm身長が伸びてびっくりする。 |
| 1981年 | 形而上の世界から出て現実に目覚めた時期。京都大学理学部物理学科の受験に失敗する。この一校しか受験しなかったため浪人確定。いわゆるどの科目でも満点近くとるタイプの学生だった。当時の共通一次試験でも900点以上(1000点満点)。慢心して二次試験に臨んだのが敗因。吉田神社前で京都には運がないとあきらめて東京を目指す。丸の内線本郷三丁目駅近くのアパート「邑楽館」で浪人生活を送り駿台予備学校に通う。はじめて一人暮らし。持ち前の性格で今度は漫画に乗り出し、少女漫画を含めて一通り読み尽くす。記憶に残っているのは神保町交差点と文京区真砂図書館、白山通りの吉野家。人生でこの年だけタバコを吸う。パチンコをやる。この時に実はアルコールも飲めると知る。テクノ系なのに改めてYesを聴く。それで文学傾向は柴田翔だったりする。村上春樹にはなれない。要するにそんな心境だった。 |
| 1982-86年 | 天才的な仲間と一緒に大学教授の道を目指すのは不利と逃げた時期。東京大学理科I類に合格。TSG。大学2年からVAX-11/780を持ってた情報科学科の研究室に入り浸る。なんだかんだでroot権限まで預かる(メンテナとして働かされていたとも言う)。4.1 BSD UNIXのソースコードを読んだり、PC-8801とPC-9801をディスアセンブルしてテクニックを磨く。FDCとしてZ80が搭載されているのに気づき、PC本体のCPU負荷をまったくかけずOSからも悟られずにプログラムを走らせる気味の悪いコードを書く。PC-8201を持ち歩きシリアルポートを見つけたらIBMだろうがDECだろうが構わず接続、その場でプロトコル解析してシステムに侵入したりする。つまり今で言うところのハッカー(クラッカーではない!)でもあった。2年生の時、趣味でとった生化学系の授業で教授のためにX線結晶構造解析データを元にタンパク質構造を3次元表示する簡単なアプリケーションを書いたところ、優をくれた上に謝礼までもらう。こんな学生だったから3年次には自然に理学部情報科学科に進む。授業には最小限度しか出席せずコンピュータ関連の仕事にいそしむ。自分の確定申告を心配する学生生活。板倉雄一郎とゲーム「ハイウェイスター」を作る。「素晴らしいマイコンの世界」の本人とは研究室で一緒。ハイトリオ南青山時代のアスキーと「Yoのけそうぶみ」の本人を知っている。日吉にあったパソコンカフェ時代のSQUARE(現スクウェアエニックス)に出入りした。神田駿河台のマンションにあったこちらもスタートアップ直後のACCESSで働いたことがある。荒川亨さん亡くなられたのですね。当時からの大企業ではリクルート(一緒にバンザイした)と明治生命システム部(当時も暗い雰囲気)が思い出に残っている。最後まで大学院進学と迷ったが、メーカー就職した先輩方がいかにも先行き暗そうだったのと、「今なら未経験の世界に飛び込めば後々役立つだろう」なんて甘い考えだったので、結局銀行への就職を決める(決めた自分もびっくり)。おかげで私が大学院に当然進学してくると考えていた先生(例のVAX-11/780の研究室)から「こんなに面倒見たのに君は…」と思いっ切り嫌われる。今でも申し訳なく思っている。 |
| 1986-98年 | suitsの皮を被ったgeekに変身した時期。株式会社住友銀行(現三井住友銀行)入行。筒井さんと同期。なんとこの時代、銀行に入れば独身寮しかも相部屋に入らねばならない。泣く泣く本棚3本分の書籍を廃棄し次の3本は理学部1号館の学生控え室に寄付し残りは実家に送る(「就職が決まって髪を切ってきたとき…」の心境)。内定をもらった後のシステム部長(当時)の面接で銀行システム部トップというものを知ってしまう。「まずい!このままシステム部行かされたら人生おしまいだ」と衝撃を受けて表向きgeekな能力を封印。「パソコンは苦手なふり」をして帰宅後にコンパイラを走らせる。惨めな日々。こんな事情を隠して営業店配属を希望したら人事部に変人扱いされる。そんなわけで就職直後は社会的知識を身につけたらすぐに辞めて起業するつもりだった。ところが「高等」数学が得意とか勘違いされて(「何それ?」と思うかもしれないが当時の銀行ってばそんなところ)営業店から証券部門に異動される。人事部に歯向かったので留学組からは外された。でも当時は数少ない数学わかる奴だからという理由で代わりに米ゴールドマンサックス社に出向、NY本社26-27Fで過ごす。コーザインがFIDのヘッドでフィッシャー・ブラックが存命だった。ピザをおごってもらったりする。FIDで「金融工学」なるものの現実を知る。つまり数学的才能としては私のようなレベルでまったく十分、というかマーケットではむしろオーバースペックであって、逆に思いっきり不足しているのはアニマルスピリットだということ。それを帰国後に銀行で上司を説得したがついにわかってもらえなかった。J.Aronの連中とストリップバーに行く。スキューバダイビングのライセンスをとる。楽しかった。銀行に忠誠を誓う気になる。帰国後に債券ディーラーを務めアービトラージ取引で往復1000億円超のポジションを複数仕組んで大暴れする。気分はゴードン・ゲッコー。しかし銀行の証券部門はゴールドマンの真逆で資金為替部門の格下(おい何だよそれ!)。辛酸をなめる。銀行への忠義が揺らぐ。落ち込んでいる最中に結婚する。退職後の将来を真面目に考えねばと昼休み人目を盗んで国会図書館に通い起業の準備をする。しかしスタンバイできたのに義理堅い性格が災いして恩義ある上司のおかげで辞められない。その上司のおかげで左遷(?)先からなんと資金為替部門に移される。観念して再び銀行員人生に戻る。ALMおよびリスクマネジメントに携わり銀行内の業務企画と規制対応システムの設計に関与する。NYでゴールドマンに立ち寄ったらロバート・リターマンがまだリスク管理のヘッドをしてて最新鋭のシステムを自慢げに見せてくれる。仕事絡みで当時はまだバブル前のシリコンバレーで某ソフトウェア会社に滞在する機会がある。それが私の人生にとっては「ダマスカスへの道」だった。ついにgeekな血が覚醒。再起動。”conversion” した私は自称「3年計画」を開始する。そして3年後本当に独立する。 |
| 1998年7月-2009年 | ニューメリカルテクノロジーズ社を設立。当社の業務は大学出たてのgeekだったらどんなに才能があろうが出来ない仕事。理由は簡単。秘密が多いから(本ないし私も書かないし)。しかも日本だろうが世界だろうがライバル会社のgeek能力は著しく低い。理由は簡単。出来る奴ほどシリコンバレーで会社作ったりヘッジファンドやったりしてスローなリスク管理ビジネスをやめちゃうから。今やよく知られているように日本国内のシステムベンダーに至っては当時も今も文字通りガラパゴス状態。ぜんぜん問題にならない。ニッチ。技術的優位に立つのは容易だったと言える。そこで最大の問題は取引先開拓だった。suitsになって築いた信用がここで活きた。と言えればカッコいいがよくぞ信用してもらえたものだと思う。だから「お客様」には頭が上がらない。銀行員時代に内実を知ってしまったので面倒な上場会社や中途半端に大きい会社にはしたくなかった。頭がカラッポなくせに金だけ出すという日本のベンチャーキャピタルが大嫌い。事情をよく知ってるから銀行取引も大嫌い。「銀行取引約定書」になど絶対にハンコを押さない主義(それするくらいなら会社を清算する勢い)。だから自然に無借金経営となって創業期には苦労する。でも自分の父親や平野さんの親戚の不動産屋さんの男気ある経営スタイルを見て頑張ってみる。当社は固定費が低い上に苦しくなれば固定費を「調整」出来てしまう。理由は簡単。株主=役員=主力エンジニアで外注費がないから。銀行員時代の同僚や先輩から「すぐ潰れるんじゃない?」みたいに言われたくないので極端に安全志向の経営をする。つまり確信犯でGoogleの逆をやった。当たり前だがシリコンバレーなアントレプレナーとはまったく話が噛み合わない。その起業から12年を経て今やエンジェル投資家を名乗れるくらいにキャッシュ(内部留保)を溜めた。確かに日本国が潰れても生き残りそうなくらいに会社も安定した。でも成長しない会社になった。これで本当に良かったのか時々自問する。技術面ではアンディ・ベクトルシャイムとか実際に会って素直にすごいと思う。ここでソーシャルネットワークとかに目が行かないところが自分はローテクだと思う。それでも20-30年先の自分はそうありたい。「エヴァンゲリオン」は2000年問題に備えるべく会社に泊まった大晦日にTV編をまとめて見た。もともとジグソーパズルが好きだったりのストイック趣味つながりで2003年のホノルルマラソンに出場。それから陸上に嵌る。wanderungは思索の時間。フル以前にトレイルランナー。カッコつけて言えばハイゼンベルグと同じ。 |
| 2010年 | TechCrunchやHacker Newsとか見てると血が騒ぐ年頃。ツボに嵌ったらしくホノルル6回出場をはじめいろいろ参加。記録もどんどん伸びて現在の自己ベストはフル3:06:27(2008:第2回東京マラソン)、100kmウルトラ9:56:22(2008:第23回サロマ湖。亀岡ランナーズの「かとちゃん」さん、くじける私を叱咤激励していただきありがとうございました。おかげでサブ10です。関東からサロマンブルー達成をお祈り申し上げております)、71.5km山岳12:08:32(2009:第17回日本山岳耐久レース)。仕事が忙しいので月間走行距離を伸ばせない。ここ2-3年は250km/月くらいが限界。柏原選手じゃないから登りが苦手。動体視力イマイチで降りも苦手。年齢のせいか10000m40分を切れないエンジン。課題は多いが故障しないのと低い持久係数が強み。スタミナ系ランナーなのだ。奥多摩山中でPETZL ULTRA BELTとGARMIN 310XTを着けて走ってる奴を見かけたらそれが私。C++ハッカー属性がなければプロでないと思う。でも自分はライトウェイト言語で楽してやると思ってる。APLをリフレッシュして現代に復活させる野望がある。iPhoneとBlackBerryとAndroidを持っていて大半の情報は英語圏から得ている。フリクエントフライヤーなので航空会社もプラチナカード(ダイヤモンドにするほど特定航空会社への忠誠心はない)。ネイティブな日本人なのに社会主義に傾く日本国とのつきあいが苦手になりつつある。高校時代見出した三段論法を再び思い出している。1992年1月12日には間に合わなかったが自分は21世紀前半にチューリングテストをパスさせたい。よく使うのは17” MacBook ProとVAIO Type Zで他にもいろいろ持ってる。vi/vim派。termcap書く喜びがインプリントされてるからだ。 |
専務取締役 筒井良和
| 1963年7月 | 香川県に生まれる。 |
| 1970-76年 | 自由な校風の中で小学生時代をすごす。小学校時代は、お調子者の優等生。児童会会長を務める。 |
| 1976-79年 | 中学時代はバスケットに明け暮れる。当時流行った大映ドラマに影響されてピアノの独学を始める。生徒会会長を務める。 |
| 1979-81年 | 高校時代は勉強。 |
| 1982-86年 | 東京大学文科Ⅱ類に合格。当時猫より勉強しない文Ⅱと言われていたが、その通りの生活を送る。専門課程は、そのまま経済学部へ進学。西村(現、日本銀行副総裁)ゼミに所属。ゼミのテーマは、当時流行していたマクロ経済のミクロ的基礎。 |
| 1986-92年 | 東京大学経済学部卒業、同年株式会社住友銀行(現三井住友銀行)入行。在職中は、証券部に所属し、主に円債ポートフォリオの管理業務に従事する。 |
| 1992-94年 | 公認会計士をめざして浪人生活を開始。短期で合格するつもりが、最初の年は見事に不合格。専門学校があった神保町界隈を、電卓と重い鞄を持って自習室を放浪し、ヒモ生活から脱出しようと喘いでいた。 |
| 1994-96年 | 公認会計士2次試験合格後、監査法人トーマツ入所。法定監査に加えて、株式公開支援業務に従事。その後、マネジメントコンサルティング部門に移動。金融機関向けのコンサルティング業務に従事。 |
| 1996-99年 | 監査法人内部での組織変更に伴い、デロイトトーマツコンサルティング株式会社に移籍。ERPパッケージの導入、リスク管理に関するコンサルティング業務に従事。 |
| 1999年7月 | ニューメリカルテクノロジーズ社に入社。現在に至る。 |
常務取締役 平野雅彦
| 1962年2月 | 栃木県に生まれる。 |
| 1968-80年 | 朝は卵焼きを食べ、昼休みは小学校の砂場で相撲、放課後は作新学院の江川卓にあこがれて野球に没頭する極普通の少年。夏休みは朝3時起きしてのクワガタ採り。採ったクワガタは1日家で遊んでペットショップ(と言っても近所の小鳥屋さん)に販売してこづかいを稼いでいた。身長が伸びる事を期待して(中学入学時の身長は 135cm足らず)バスケットボール部に入部。テレビ東京「三菱ダイヤモンドサッカー」で放映していた1974年FIFA西ドイツワールドカップでの Johan CruijffとGerd Mullerのプレーに感化されサッカーにのめり込む。田舎の県立高校に入学したが訳あって帰宅部。放課後は日本最古の学校と言われている足利学校の図書館に通いつつ、大河ドラマ「草燃える」に影響され日本史の先生を目指す。山川の教科書は欄外を含め殆ど暗記していた。 |
| 1980-84年 | 湘南の海と横浜の文字に誘われて横浜市立大学商学部に入学。迷わずサッカー部に入部。自分ではCF向きかと思っていたがいきなりDF、それもCFをマークするStopperという極めて地味なポジションを与えられる。また、バスケットボール部時代に培ったキャッチングのよさを見込まれ、半年間キーパー練習も経験。なんと当時神奈川1部リーグに所属していた東海大学(現在関東1部リーグ)との試合でGKとしてもデビューする。「大学で中国語を勉強して中国語で麻雀やろう!」といった高校同級生の冗談を真に受け第二外国語は北京語を選択。2年でいいところをたっぷり3年間履修する。 |
| 1984-87年 | J-Starに魅せられて富士ゼロックス株式会社に入社。半年間の営業教育を経て北海道営業部旭川出張所を命ぜられる(衝撃の瞬間)。今では入園者数トップの旭山動物園だが当時は廃園のうわさもあった。そんな旭川市内でJ-Starが売れるはずもなく、マイナス30度が一週間も続く極寒の地方都市でコートも着ずひたすら犬棒セールスを繰り返す。 |
| 1987-98年 | ミニコンの巨人と言われていたDigital Equipment Corporationの日本法人、日本デジタルイクイップメント株式会社に入社。大手金融機関向けにシステムを販売。VAX/VMSでIBMの株価を上回る事もあった全盛時代からSUN/HPのUNIX陣営の台頭により窮地に追い込まれた時代を経験。世界最速だったAlphaチップも救世主には成りえず「速さだけでは勝てない、速さだけで勝負してたら速さに負ける」ハードウェア会社の悲哀を痛感。 |
| 1998年12月 | ニューメリカルテクノロジーズ株式会社に入社。現在に至る。 |
主な取引先(敬称略)
三井住友銀行 農林中央金庫 三菱UFJ信託銀行 三菱東京UFJ銀行 日本生命保険 住友信託銀行 三菱UFJフィナンシャル・グループ 住友生命保険 三井住友海上火災保険 三井住友海上きらめき生命保険 丸紅 中央三井信託銀行 日本ヒューレット・パッカード ほか
取引銀行
三菱東京UFJ銀行表参道支店 三菱UFJ信託銀行本店 住友信託銀行東京営業部 あおぞら銀行本店 ほか
所在地地図
東京メトロ —- 千代田線・銀座線・半蔵門線 「A2」出口 徒歩1分
